諸外国とちがうのは、ここでも大変長い在院日数がみられることです。


厚生省「老人保健管理に関する研究」(1976年)の結果によると・・・


在院日数について回答のあった28施設のうち、2例は300日台、800日以上の施設が2施設もありました。


ほか、200日台が多く8施設。


特別養護老人ホーム自体の設立が最近なので、実際には、ほとんどの入所者はいったん入れば退院しないことになります。


換言すると、死亡に至るまでの期間が在院日数と同じ、というケースが多いのです。


心身障害を有し依存的な生活しかできず、家族やデイサービスの援助も得られない老人が入院していることになっています。


事実上広義のターミナル的入院の施設と化しているところが多いのではないでしょうか。

あくまで過渡的なものです。


私はよく「通過点」にすぎないと誇張して表現します。


このようなたくさんのニーズのなかでは、そういう通過点という姿勢で利用すべき施設です。


非常に高価な機械設備、専門スタッフを擁した限られた社会資源です。


かりに、民間立であったとしても、公共財的性格をもつのが高度専門病院です。


外国のほとんどがそうであるように・・・


平均在院日数が1、2週間程度となるべき性質の入院施設なのです。


ところが、日本のそれは、現在4週間を越える世界で最も長い日数です。


特別養護老人ホーム(以下特養ホームと略称)とデイサービスは、あらたに登場した収容施設です。


日本にある約800の特別養護老人ホーム(1978年現在)のほとんどは、ねたきり老人つまり脳卒中後遺症患者などの収容(医療)施設です。

病院医療に典型的なように、専門サービス提供という見地からの収容主義的アプローチがあります。


それは特に老人にたいして著しいものです。


少し複雑な検査診断でも入院、ちょっとした手術でも何日かの入院という例が加わります。


確かに総合病院には高度な機能があります。


早くそれを利用し、正しい診断と治療をうけることが、救命につながることもあるけれども、それが適した症例は限られています。


第一線医師からの正しい判断でえらばれた少数の症例には有効です。


慢性疾患中心の時代になると、このような総合病院での医療は、完全治癒やリハビリテーションを目ざし、それを中心的に担うものではありません。

こんにちは。


今日は、施設中心主義の反省と位置づけについて。


施設中心主義もしくは収容主義は、いま先進国といわれる諸国で点検され、反省され、軌道修正されています。


・・・これには、いくつかのタイプがあったが、いずれも時代にそぐわなくなり、効果の少ない高い費用支出の元凶となってきたものです。

今は老人ホームやデイサービスが高効果を出しています。


精神障害者などのように、社会防衛的見地からの収容主義があります。


この種の考えは、外来の精神障害者にも公費負担する時期あたりから変更せざるを得なくなってきました。


精神障害者は、決して祉会に迷惑をかけ危険をもたらすものではありません。


社会が地域のなか家庭において保護しケアをすべき対象なのです。


・・・そのような考えに変ってきています。


とある地域は、より小地域ででき上れば最も理想的ですが・・・


各地にこれが実現するためには、どうしても「計画」の考えが一つひとつ詰められなければなりません。


それには、いわゆる「行政」が大きく関与し、指導しなければなりません。


この行政や専門家の用意し、住民や老人らの意見にも卒直に耳を傾けて練られた「地域老人保健計画」は・・・


今世紀後半での最大の課題「老人保健福祉問題」克服の中心的戦略・戦術を形づくるものです。


ここに、どれだけ実際的に、知恵と時間と予算とを配分できるかが、社会保障の質的レベルを上げ、内容を充足させる最大のカギであるように思われます。


年金などといったナショナルでかつ経済中心の課題と並んで、「老い方」「老後の生活」・・・


ひいては「死に方」にかかわる最大の課題が、この地域ケアのための「地域老人保健計画」です。



従来の「代替関係」と「競争関係」を否定して、新たな「協力関係」が止揚されて定着します。


地域ごとにユニークな、その地域独特の協力関係が、各地に生れてくることになります。


家庭ケアの独自な役割実現は、各地、各国の課題です。


家族員は、賢明で、健康と福祉についての認識と経験を深めた人(インフォームドパーソン)で構成されるようにすることが可能です。


愛情という保健サービス提供者にはもちえない深く強い絆(きずな)が老人と家族の間に介在します。


いうなればアマチュアの役割が、地域に正しく位置づけられ、配置された施設、適切に教育され資質を備え・・・


ヒューマニズムのしみとおったワーカーとプロフェショナルとがぴったり呼吸があうとき(両者の努力で)・・・


各地での「保健福祉問題」克服のたたかいは、終息に近くなるでしょう。

施設もまた、家族が家庭に老人の病状、状態がよくなったらいつでも引きとってくれます。


少々無理であれ退院させてくれる、ということがあると病床回転もスムーズにいきます。


施設機能を地域の多くの人に提供可能となります。


施設ケアと家庭ケアとを包摂する上位概念として、「地域ケア」という言葉を仮に用います。


つまり、この考えでいくと・・・


本来、施設ケアは地域から離れて存在するものではないから、その機能を、家庭ケアをしている老人にも開放します。


家庭ケアの援助者である第一線医師や保健婦、訪問看護婦やヘルパーやデイサービスも、いろんなかたちで、特別養護老人ホームや老人病棟に直接的かかわりをもたさせてもらいます。


両者は互いに機能分担しながらも、他のために寄与できる働らきに重点をおきます。

今また別の反省が出てきています。


曲った弓を別の方向に曲げてしまう意見が出ています。


つまり、もともと福祉とか医療は家庭で行ってきました。


・・・とくに、病める老人への保健サービスの場合、家庭ケアが従来の施設ケアにとって変わらなければなりません。


そういう主張があります。


家庭ケア中心で、それを一部補強し代替するものとして、施設ケアがある、という位置づけです。


私は、この二つの対応は、互いに代替して消しあうものだと考えません。


両者は、重複しあい、一方の真の充足のためには、他が普及しなければなりません。


施設にしっかりした「いざというとき」の救急とかショートステイ入院、日々の負担を軽減するデイサービスの態勢があってこそ、家庭ケア持続も可能です。

介護をするほうも病気もするし、ときには旅行にも行きたい。


まめに定期往診をしてくれる医師も少ない・・・。


病める老人への施設ケアと家庭ケアとその間のデイサービスのあり方が、今後日本の社会保障の根幹的問題になります。


今までは、とくにアメリカやスウェーデンなどでは、施設ケアがまず不足なのでともかくそれをつくれ、という訴えが強かったのです。


福祉とか医療も、高度専門施設あるいは専門スタッフによる入院・収容が中心の態勢充足に明け暮れしてきた。


家庭ケアは、それが不充分なとぎの補強、つまり「代替」とみなされていました。


素人による「安上り医療」ともいわれてきたのが、家庭ケアです。


専門職によるケア「独占」という発想もあって、素人やヘルパーは福祉・医療には手出すべからず、の雰囲気すらなくはありませんでした。


1960年代に入って、医療産業や「福祉産業」などが急成長する時期には、特にこういう施設ケア花盛りという状態が経済的に造り出されたのです。

他人に依存するにも、いくつかの方途があります。


施設に入ってしまう、在宅で闘病する、在宅のまま昼だけデイサービスの世話になる、などさまざまの対応が考えられます。


しかし、低経漉長によって祉会保障財政に限度がある時代では、病める老人、ひとり暮し老人すべてを施設に入れる余裕はありません。


また、病院や特別養護老人ホームに入れこんでしまえばよい、というものではありません。


入所(院)自体が老人を気落ちさせ、症状が悪化することもあります。


住み慣れた自分の家、部屋、そして家族から離れることは、それ自体大変なショックです。


それでは、家族つきっきりで、地域の医師の往診などでもって、在宅療養を何年も続ける道をとるしかないのでしょうか。


「嫁」は勤務を止め、「老人介護」に専念し得たとしても・・・ねたきり老人をケアする家族も「生身」の身体です。